ベーコン

燻製の豚肉です

カルメンと表現の必然について

新国立劇場で「カルメン」を観た。

www.nntt.jac.go.jp

 

演者、特にカルメン・ミカエラは演技も歌も集中が無限に持続しているようで、緊迫感あるステージでした。演奏も曲もよかった。

気になったのは、読み替えの演出。

 

 

典型的な現代読み替えだった。カルメンはバンドの歌手、ホセは日本の私服警官...だったのだが、いまいちその読み替えの必然性を感じなかった。衣装と装置が伝統的なものではないだけに見えてしまった。

いわゆる現代風の演出って、ざっくり大きく分けて、シチュエーションをまるごと現代風にするものと、舞台装置・美術を抽象的にするものとがある(と思ってる)。シチュエーションを替えることによって作品の新しい見方が提示されたり、あるいは背景(舞台装置や美術)の情報を削いで見せることでテーマを浮き彫りにさせたり・それまで思われていたものと違うテーマを提示したりするものだと思っていた。が、そのどちらも今回の演出では見出せなかった(ただ私に教養という名の元ネタ知識がないだけかもしれないが...この記事はこれが前提となります)。

 

演出のアレックス・オリエは「今回のカルメンは、運命を自分で決める現代的な女」と言っていた。これにもイマイチ賛同できない...。これまで観た伝統演出やモダン舞台美術のカルメンでは、(「カルメンには全く共感できねえな」と思いつつ)なんやかんや彼女は魅惑的だった。この魅惑性って、脚本の中でのカルメンの奔放な生き方が、「運命を自分で決め」た結果であることに由来するのでは? 

もともと運命を自分で決めている女の物語なのに、今回のカルメンはそれを強調し、さらに現代の普遍的な物語に落とし込もうとするあまり、魅惑性は失われ、傲慢でわがままな女という印象が残ってしまった。登場人物全員が大概なのに、カルメンが魅力的でなくてどうするんだ。そして、そういう傲慢さをわざわざ表現するのは“現代的”なのだろうか。「女が傲慢でも良い」みたいなメッセージにも見えてしまい、それって現代的なトレンドとかけ離れていると思うのだが。「勇気・自由の象徴」「モデルはエイミー・ワインハウス」の言葉もあったが、いずれも演出(演技)表現とちょっとズレているように感じた。「東京で『スペイン週間』という架空のイベントをやっていて、そこでエスカミーリョは闘牛士で...」は劇中で一切語られず、観ているときは「急に闘牛出てきた...」と思ったぞ。

というわけで、作り手(演出)の見せたいものが演出からはよく見えなかった。鉄パイプで構成された舞台装置や空間の使い方とかはすごく面白くて、一幕を観ているときには「こりゃすごく面白いカルメンかも」とわくわくしたんですけどね。フィナーレはちょっと面白そげだったが、そこに行き着くまでの二、三幕の演出に必然性がないから、ラストシーンとしての効果が半減、予想外の示唆は現れず。あの舞台装置と衣装と演出と、なによりカルメンという物語を通して何が言いたかったのかが、舞台表現からは汲み取れませんでした。トーク全部見てもなお、表現と結びつかず...。なにかを齟齬なく伝えたいのであれば、表現の必然性は本当に大事だと改めて実感した公演だった。読み手が受け取れる必然性は安心感につながる(もちろん、あえて伝えないという表現もあるが、それは今回は狙っていないであろう)。

演者のやりたいことや音楽はやっぱりすごく良かっただけに、表現のちぐはぐさが本当に惜しい。こうして惜しみたくなるほど、作品の魅力が強いから、そういう作品での読み替えは大変だな〜。

アレックス